RC-135

今でこそRC-135SRC-135U等マスコミにもよく登場する有名機となったが、本来彼らはサイレント・ウォリアー(沈黙の戦士)と言われ、情報収集という地味な任務を一目に付かないように淡々と行っていくのが任務であった。RC-135にかかわらず偵察任務を行ってきたこれらの部隊は、冷戦時も含め公表されずに領空またはその付近でソ連機に撃墜されたり、事故で失われた機体と乗員は多数に上ると見られるが、その多くは公表もされず機密時に処理されたはずである。

1983910325 サハリン上空で大韓航空007便がソ連防空軍のSu-15フラゴンに撃墜され 乗客乗員269人が死亡した事件があった。この事件の原因は様々な説が有り、慣性航法装置の入力ミスなどが上げられたが、当のソ連空軍は、大韓航空のB-747を完全にスパイ機と思い込んで撃墜していた。同じ頃に米軍のRC-135が付近を平行して飛行していたと言われ、領空ギリギリに電波収集していた米軍のRC-135をうるさく感じていたのは確かのようである。だから、ソ連としては民間機か米軍機かなどはどうでもよく、未確認飛行物体が領空に進入すれば、直ちに撃墜と言うシナリオ立てていたのである。この逸話を耳にした時、謎に包まれていた冷戦中のRC-135の役割がクローズアップされた。

RC-135T
RC-135M
C-135M RivetCard/Quick

1966年〜1967年にC-135B 6機を改造して作られたSIGINT機で、RC-135DRC-135Eと同じくロングノーズレドーム、空中給油リセプタクル 両翼端のピトー管を持っているほか、胴体後部両側面に涙滴型フェアリングが設けられ、空中給油装置のフェアリングもレドームに改修されている。

1970年代後半には、嘉手納に派遣されていたSR-71A部隊と共同で、ソ連の弾道ミサイル潜水艦基地のあるカムチャッカ半島を中心に、レーダー波特性やあらゆる通信傍受を担っていた為、当時のソ連空軍が最も撃墜したかった米軍機の1つであったはずだ。
RC-135Mは従来のSAC用SIGINTプラットフォーム RB-47HBoxTop"の後継機であり、1967年には早くも5SEW所属機として極東に派遣され 横田・嘉手納からSIGINTミッションを開始した。1967825日、横田のRB-47H支援部隊、3rd AD Det.1が解隊され、かわって嘉手納の4252SW197041日、376SWに改編)がRC-135Mの偵察活動支援を引き継ぎ、911には嘉手納から初のRC-135Mによる"CombatApple"ミッションが行われたとの事。

← RC-135M 24132は、嘉手納に飛来していなかったと思っていたが、1978年のネガにボケた写真が残っており飛来していた事が分った。

1977年〜1979年頃RC-135T コブラ・ジョーズとかリベット・ダンディとかの愛称があるのだが、その当時は航空機に詳しい人以外殆どの人が知らなかったはずだ。嘉手納基地でよくお目にかかる機体であったが、機体上面を白くお化粧したRC-135Mと比較し、無塗装のジュラルミン肌のままで背中に多くのアンテナを付けていたので、少し不気味なイメージがあった。RC-135T 55-31211957年の初飛行と言うから、その当時でも20年以上のベテラン選手だった訳だ。この機体、1983225日にアラスカのヴァルディス空港に着陸に向かう途中、付近の山に激突して乗員3名が死亡している。どうも当日の天気は悪かったようで 前方にすでに着陸態勢に入っているカナダ航空機がいた為、上空で待機して迂回飛行中の事故らしい。機体の捜索にはSR-71まで駆り出されたそうだが、半年後の8月になって漸く機体の残骸が発見されたようである。
コンバット・アップルミッションはM型の他にRC-135C/Dも加わり、1973年までに3,250ソーティーを実施、トンキン湾・ラオス上空を周回飛行しつつELINT作戦に従事したほか、SAM/Mig警報の発信や捜索救難活動の支援なども実施している。これら以外にもRC-135MはヨーロッパでのELINT作戦に用いられたが、1980年からEシステムズ社でRC-135Wへの改修計画がスタートし、1983年までに6機全機が改造された。
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